槍ヶ岳憧憬

2010年8月18日記

■1■富士と槍■
 深田久弥の『日本百名山』に、次のような一節がある。

 富士山と槍ケ岳は、日本の山を代表する二つのタイプである。一つは斉整なピラミッドで悠然と裾を引いた「富士型」であるに反し、他の一つは尖鋭な鉾で天を突く「槍型」である。この二つの相対するタイプは、他の地方の山々に多くの「何々富士」や「何々槍」を生んだ。私たちがどこかの山へ登って、「あ、富士が見える」と喜ぶのと同様に、「あ、槍が見える」という叫び声を聞く。

 深田久弥の『日本百名山』から半世紀が経つ。かく言う自分も含めて、富士と槍を追い求めている状況は変わりない。
 ところで、「富士か槍か」と二者択一を迫られたらどうだろう。私は、躊躇なく、「槍」と答える。若い頃、「カミソリのようだ」と評されたことがあった。年を重ねるうちに、そのころの切れ味はすっかり失せたが、今もなお、槍は憧れの山だ。

■2■槍に近付く ~燕岳登山~■
 奥飛騨温泉郷に、「槍見館」という旅館がある。今は奥飛騨温泉郷と括って言うが、かつては槍見温泉と名乗っていた。ここの露天風呂からは、槍の穂先が見える。温泉郷の最奥、新穂高ロープウェイで上がっても、槍の穂先が見える。方角的には、南西側から眺めることになる。これらは、労せずして槍が見える絶好のポイントと言える。しかし、写真に撮ってみると、200ミリの望遠レンズを使っても、それと識別できる程度に過ぎない。
 槍に近付くには、山に登るしかない。5、6時間の登山で槍に近付くには、大きく2つのルートがある。西側から槍を眺めるなら、双六岳登山道にある鏡平(ほぼ西)。双六岳(北西)からも見えるが、さらに3時間ほど登らなければならない。東側から眺めるなら、燕岳(北東)か常念岳(やや南よりの東)に登ることになる。最初の槍見登山に選んだのは、燕岳である。奥飛騨温泉郷からとは正反対の側から槍を見ることになる。
 燕岳を「つばくろだけ」と読める人が、どれほどいるだろう。一般的にはあまりメジャーな山ではないが、北アルプスの入門的コース(そのくせ、北アルプス3大急登の1つ)で、コマクサの群落がある山として、その世界では知られている。

 穂高の町並みを抜け、東の山塊に分け入り、標高1450m付近まで車を走らせると、中房温泉がある。そこが登山口になっている。2007年8月1日、午前6寺30分、私たち一行(私と妻)の燕岳登山が始まった。燕岳の標高は2763m、燕山荘は2680m地点に建っている。登山口から燕山荘までは5.5kmに過ぎないが、この間の標高差が1228mある。2点間の水平距離は約3250mだから、平均勾配は37.8%ということになる。
 登山口から、いきなりの急登が始まる。途中、第一ベンチ、第二ベンチ、第三ベンチ、富士見ベンチで小休止をとる。やっと辿り着いた合戦小屋で大休止。一息入れて、合戦小屋から一登りすると合戦沢ノ頭(標高2489m地点)に着く。視界が開け、槍の穂先が大きく目に飛び込んでくる。感動の瞬間だ。詳細に描写すると、前方に燕山荘が見える。燕山荘の右手に燕岳から北燕岳の稜線が続く。そして、左手に延びる緑の山並みの向こうに、槍の三角錐が聳えている。
 燕山荘に着いたのは、11時30分頃だった。宿泊の申し込みを済ませ、燕岳の頂上に登り、さらに北燕岳との間の砂礫地に広がるコマクサの群落まで足を伸ばした。この稜線上からの槍の眺め、夕焼け空の下での槍の眺め、モルゲンロートに染まる槍の眺め、…そのいずれもが、言葉に尽くせないほどの感動だった。

合戦沢ノ頭まで登ると槍の穂先が見える 燕山荘から見る槍ヶ岳
夕暮れの槍ヶ岳 モルゲンロートに染まる槍ヶ岳
■3■槍に触れる ~槍ヶ岳登山~■
 槍に近付いてみると、槍そのものに触れてみたいという願望が強くなる。憧れはあこがれのまま終わると思ってきたが、いつしか期待が不安を追い越して、槍ヶ岳登山が現実味を帯びてきた。自分の年令や体力、家族のことなどを考えると、今年は好機だ。5月末に上高地へニリンソウの花を見に行った時、1度泊まってみたかった徳澤園の予約を取った。8月8日に空きがあったので、出発日をこの日に決めた。
 8月8日(日)、7時に家を出て、平湯温泉で昼食。あかんだな駐車場で上高地行きのバスに乗り換え、1時頃には上高地バスターミナルに到着した。登山届けを出して、いざ出発。徳沢に宿を取った関係で、槍沢ロッヂまでの行程を2日に分けて歩く。徳沢までは何度も歩いているが、10キロ近いリュックを背負うと、気分が締まる。7km、約2時間の行程は、足馴らしにちょうどいい。
 徳澤園は井上靖の『氷壁』の舞台になった所で、前穂がきれいに見える。自家発電のため消灯が早いこと、トイレがバイオ式の物であることなどを除くと、山小屋というより旅館に近い。 宿泊客は、登山者半分、旅行者半分といったところか。

 9日(月)、急ぐこともないのだが、7時半には出発してしまった。徳沢から横尾まで4km、1時間あまり。ここまでは、以前にも来たことがある。横尾は、涸沢から穂高連峰への道、槍沢から槍ヶ岳への道、さらに蝶ヶ岳への道の分岐点で、多くの人でにぎわっていた。小休止の後、出発。横尾からは、梓川の上流である槍沢に沿って進む。一ノ俣谷、二ノ俣谷に架かる橋を渡ると、やっと登山道らしい登りになってくる。横尾から槍沢ロッヂまでは歩行距離4km、標高差193mで、到着地点の標高は1814mである。10時30分着。早い到着の唯一の理由は、先着順に申し込める個室を確保することにあった。ところが、ここで問題が起こった。トップシーズンで宿泊者が多いので、すべて相部屋にしていると言うのだ。この際上まで行こうかとも思案したが、最終的には相部屋に落ち着いた。さて、この日の相部屋は、部屋の真ん中に通路があり、通路の両側に2段の棚が設けられている。1つの区画の定員が4名で、通常は16人部屋である。この日は、1つの区画に枕が8つ、ほぼ隙間なく並べられていた。1人のふとんが0.5枚ということになる。私たちの区画は、2人のパーティーが3組、間の枕を1つ隔てて寝ることになった。夕食後、6時半から窮屈な眠りに就いた。

 10日(火)の朝は、朝食の順番取りから始まった。5時から始まる1回目の朝食にありつくには、4時ごろから並んで待つのだ。暗闇の中、ヘッドランプをたよりに身繕いをし、食堂の前に並んだ。1時間待った朝食はわずか10分で終わった。
 5時40分、出発。気持ちの良い晴天である。ロッヂの端の広場から、槍の穂先が小さく見えている。それだけで、気持ちが高ぶる。冷静に記録すると、歩行距離5.9kmで1300m近い標高差を5時間ほどかけて登るという、結構しんどい行程が始まる。
 30分ほど歩くと、ババ平に着く。このあたりまで来ると、氷河時代の名残である槍沢のU字谷がはっきりと見渡せる。東鎌尾根への分岐点である大曲を過ぎると、いよいよ登りがきつくなる。ここから槍ヶ岳山荘までの平均勾配は、40パーセントにもなる。およそ10kgのリュックが、ボディーブローのように効いてくる。
 出発から2時間ほどで、天狗原分岐(標高2344m)。登りはますます急になり、最後の水場を横切るとグリーンバンドというハイマツ帯に出る。ようやく、槍ヶ岳が姿を現す。空はどんよりと曇り、ガスに包まれている。登山誌などでお馴染みの写真とは程遠いが、ガスが晴れた時に姿を見せる槍も、十分にいい。写真のタイムスタンプは、8時34分。
 10分ほど進むと、ヒュッテ大槍への分岐点。その先の大岩の下に坊主岩小屋(播隆窟)がある。播隆上人は槍ヶ岳を開山した人だ。笠ヶ岳から見える槍ヶ岳の姿に心打たれ、1828年7月28日に登頂している。坊主岩小屋はそのベースキャンプにあたり、50日余も念仏修行をしたそうだ。
 ヒュッテ大槍分岐(標高2665m)から45分で殺生ヒュッテ分岐(標高2878m)、9時31分通過。岩礫の登りは一段と急になり、槍の肩(槍ヶ岳山荘が建っている所を「槍の肩」と言う。槍の穂先の基部にあたるので、「肩」だ。)がすぐそこに見えているのに、一向に近付かない。10時24分、標高3082mの槍ヶ岳山荘に到着。個室に入れた。
 槍の穂先である。私たちが到着した時は、濃いガスの中だった。その後も全容が見えることなく経過し、午後からは雨になった。やがて雨は激しさを増し、雷雨となった。夕刻、雨は依然として降り続いていたが、ガスがとれた。3畳の部屋の窓から、穂先を撮った。深夜3時半には、穂先は星空の中にあった。しかし、4時過ぎにはガスに包まれ、そのまま下山まで姿を見せることはなかった。そんなわけで、槍の頂上には立たず終いだった。残念というよりも、槍への畏敬の思いの方が強い。無理をして頂を踏まずによかったと、これを書いている今も思っている。

 11日(水)、5時20分出発。妻が軽い高山病にかかり、食べられる状態ではなかったので、朝食抜きで下山の途についた。濃霧もしくは霧雨といった天候で、下るほどに雨降りになった。止み間もあったが、1日中レインウェアで歩くことになった。膝が痛むこともあり、下山はつらい。ヘロヘロになりながらも、1500mを下り、17kmを歩き、明神館に辿り着いた。足の筋肉が悲鳴を上げている。
 翌12日に、バスターミナルまでの3kmを歩き、帰路についた。この日も朝から雨だった。 
天狗原分岐の上、槍が姿を現す 播隆窟から見る槍ヶ岳
殺生ヒュッテが見えているのに近付かない ガスに包まれる槍の穂先、もう一息だ
雨の中、ガスが晴れ、槍の穂先がくっきり浮かぶ これが槍の頂上、岩の塊に垂直のハシゴが架かっている